3.11 大震災の爪痕

震災の日からの記録

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震災前の街並

震災前の街並み(野々田)

まさか、これほどの震災に襲われるとは思ってもみませんでした。 そのため街並みをきちんと撮影することはほとんどしていませんでした。

でも私が住んでいた岩手県大船渡市大船渡町にあった自宅の近くは撮ったことがありました。 それらの写真を載せたいと思います。朝早くに撮った写真が多いせいか人通りはほとんどありません。 (日中でもそれほど歩いている人はいませんでしたが…。)

まずは自宅近くの写真からです。この黒い車は私の車で花がたくさん置かれているのが 我が家でした。妻が手塩にかけて育てた鉢植えたちもきれいさっぱりなくなっていました。
 
お隣のあたご屋さん。魚屋さんで、よくサンマやイカをいただいたなー。 この時は家族総出でイカの一夜干しを作っていました。
 
市日(盛町で毎月5と0の付く日に開かれる市場)では 知らぬ人はいないとの名物母さんです。この朗らかな、あたご屋の母さんは震災では大丈夫だった のですが避難先の体育館で余震が起きるたびに寒空の中、外に出たりしてみるみる弱っていったそうです。 家業の魚売りもできなくなり、すっかり元気をなくしたあたご屋の母さんは翌年仮設住宅で亡くなりました。
 
家の前にあった朝日という名のパチンコ屋さん。自家用車の駐車場に 困っていてダメもとでパチンコ屋さんに相談してみたら「停めていいですよ」と。わたしが「いくらで 貸していただけますか?」と言うと「ご近所なのでいらないです」と言われて図々しく何年か停めさせて もらったことがあったなあ。左の奥の灰色の二階建ての家が私の家でした。
 
念願だった下水道工事の時の写真。この後、水洗トイレにしました。 トイレに入るのが楽しみなくらいでした。
 
自宅から100メートルくらいのそばにあったタイサン大船渡工場。 子供のころからあった工場で震災当時はこの屋根に車が乗っかっていました。
 
自宅前の広い県道。昔は中学校通りと言っていました。 この3階建の家はお隣さんです。今は家族別々の仮設暮らしとのことです。
 
道路挟んで向かい側にあった喫茶店ノザワ。美味しいコーヒーと言うことで いつも人で賑わっていました。震災後、この店に女性の遺体が見つかったということで奥さんが亡くなった とされましたが実際は埼玉の親族の元に避難していたそうです。
 
須崎商店街。子供のころはとても賑わっていて人が途絶えることはありませんでした。 以前電気の検針をして歩きまわっていたこともあり目をつぶれば今でも隅の隅まで思い出せます。
 
須崎川からマイヤまで通じる道。この橋はたしか汐見橋という名前だったと 思います。
 
須崎川。この小さな川は私の子供の頃の遊び場でした。魚を釣ったり、 ある時など水かさが多かった時、船から船に飛び移っていて足を滑らせ落ちてしまい近くの人に助けられたことも ありました。秋には鮭も遡上してきましたし春には満開の桜が川面に垂れて美しい景色を楽しませてくれる場所 でもありました。